大判例

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宇都宮地方裁判所 昭和34年(わ)138号 判決 1959年10月17日

被告人 五月女寅之助

大三・一・一三生 農業

主文

被告人を、判示第一乃至第四の事実につき禁錮一月及び罰金一二、〇〇〇円に、判示第五の事実につき懲役一六日に各処する。

右罰金を完納することができないときは、金四〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は判示第一乃至第四の事実につき、全部被告人の負担とする。

理由

(罪となる事実)

被告人は法定の運転資格を持たないで、自動車運転の業務に従事しているものであるが、

第一、昭和三四年一月六日午後二時頃、宇都宮市下荒針町二、六七八番地附近道路において、小型貨物自動四輪車(栃四す第二、四八四号)を運転して無謀な操縦をなし

第二、同月三一日午後八時頃、栃木県鹿沼市茂呂二、二〇九番地附近道路において、右自動車を運転して無謀な操縦をなし

第三、右日時場所において、右自動車を東方に向け、時速約三〇粁の速度で、道路左側中央寄りを運転して進行中、前方約三〇米の道路左側中央寄りを、被告人と同一方向に自転車を押し、横に並んで歩行中の真田保夫及び坪子ツヤの姿を認め、そのままの状態で進行するにおいては、同人等に追突する危険があつたので、これを避けてその右側を追い越そうとしたのであるが、かかる場合においては、適度に自動車の速度を緩め、歩行者に近接する以前に把手を十分右に切り、歩行者と十分な間隔を保つてその右側を通過する等の方法により、衝突事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があつたのに拘らず、これを怠り、進路及び速度ともほとんどそのままの状態で約二〇米進行(歩行者の後方約一二米に接近)し、始めて追突の危険を感じたのであるが、その際同乗者との話に熱中していたため、やや手遅れとなつて約六米進行(歩行者の後方約六米に接近)してしまい、あわててハンドルを右に切り、且つ急停車の措置を構じたが、時すでに遅く、自動車の前部附近を右坪子ツヤ並に同人等の押している自転車に衝突させ、同女をその場に転倒させ、真田保夫に対しては、その右手に右衝突による衝撃を与え、よつて右坪子に対し、その右上下肢部に加療約一〇日を要する打撲傷を、真田に対し、その右手掌部に休養約二週間を要する打撲傷を、それぞれ与えて傷害し

第四、前記(第三)傷害事故を起こすや、直ちに現場における交通の安全を図るために必要な措置と被害者救護の措置とを講じたのであるが、その際事故現場には警察官が居なかつたのであるから、直ちに事故発生地の管轄警察署の警察官に右事故の内容及び講じた措置を報告しなけれびならないのに拘らず、これを怠り、その所轄鹿沼警察署の警察官に右の報告をなさずして放置し

第五、昭和三四年六月一八日午後五時半頃、鹿沼市千渡一、七五七番地附近道路において、小型貨物自動四輪車(栃四す第五四〇〇号)を運転して無謀な操縦をなし

たものである。

(証拠)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為中、第一、第二及び第五の各無謀操縦の点はいずれも道路交通取締法第二八条第一号第七条第一項第二項第二号に、第四の事故等の報告義務(合憲であることは後記のとおり)違反の点は同法第二八条第一号第二四条第一項同法施行令第六七条第二項第一項に、第三の各業務上過失傷害の点はいずれも刑法第二一一条前段罰金等臨時措置法第三条第一項第二条第一項に該当するところ、判示第三の各業務上過失傷害の所為は一個の行為が数個の罪名に触れる場合であるから、刑法第五四条第一項前段第一〇条を適用して、重い坪子ツヤに対する罪の刑に従い、なお判示第一乃至第四の罪は前記(一)の前科の罪と同法第四五条後段の併合罪の関係にあるから、同法第五〇条に従い、各その所定刑中、判示第一、第二及び第四の各道路交通取締法違反の罪についてはそれぞれ罰金刑を、判示第三の業務上過失傷害の罪については禁錮刑を各選択し、以上の判示第一乃至第四の罪につき、刑法第四八条第一、二項を適用して併合罪の加重をなし、その刑期及び金額範囲内において被告人を禁錮一月及び罰金一二、〇〇〇円に処し、同法第一八条に従い、右罰金を完納することができないときは、金四〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により、全部これを被告人の負担とする。次に判示第五の道路交通取締法違反の点については、所定刑中懲役刑を選択した上、刑法第六六条第七一条第六八条第三号を適用して酌量減軽をなし、その刑期範囲内において被告人を懲役一六日に処する。

(判示第四の事故報告義務について)

検察官は、憲法第三八条第一項の黙秘権は刑事手続のみについて認められた権利であつて、行政的取締の面においては、これを認むべきものでなく、従つて交通事故の報告義務を課した道路交通取締法施行令第六七条第二項の規定は合憲であり、被告人は右報告義務違反の責任を免れないと主張し、大貫、岩本両弁護人は、右施行令の規定は(一)その基本法である道路交通取締法第二四条第一項の委任(被害者の救護に準ずる事項)外の事項を規定したものであり、(二)仮にそうでないとしても、憲法第三八条第一項に違反するから、無効であつて、判示第四の事実は無罪であると主張するのであるが、当裁判所の見解では、我国憲法上の黙秘権は刑事手続のみに認められたものとは解しない。又右施行令の規定は道路交通取締法第二四条の委任の範囲内の事項を規定したものであり、而もその規定内容は実質上憲法第三八条第一項に抵触せず(抵触しない限度において存在価値を認める)。これを遵守する義務があると解するから、前記の如く被告人を有罪に問擬したのである。以下その理由を開陳する。

検察官は、憲法第三八条第一項の黙秘権は刑事手続のみについて認められた権利であつて、交通警察上の報告についてはこれを認むべきでないと主張するのであるが、交通事故の報告は刑事手続中の捜査と表裏一体をなすものであり、これを分離できないのみならず、仮りにこれを観念上分離したとしても、憲法上の黙秘権は国家を構成する生きた人間に対し、最低限度の自衛本能を尊重する制度であるから、刑事手続以外の面においても、尊重されなければならない性質のものである点に思いを至せば、米合衆国憲法の如き制限のない我国憲法の解釈上、右の見解は狭きに過ぎるのである。即ち刑事訴追延いては刑事責任を問われる原因となるような不利益な供述の強要は、形式上刑事手続でなくても、即ち交通警察上の要請に基ずくものであろうとも、すべて憲法第三八条第一項がこれを許さないものであること、両弁護人所論のとおりである。よつて当裁判所は検察官の右見解を採用しないのである。

次にこの問題については、憲法上の黙秘権は刑事手続のみに限らず、それ以外の面においても尊重されなければならないが、交通事故の報告は個人の黙秘権を犠牲にしても、公共の福祉のために、要請されなければならないとする考え方がある。然し黙秘権の制度は元来人間の最低限度ギリギリの自衛本能を尊重する制度であつて、これを制限することは人間の否定に近く、見方によつては、黙秘権を尊重すること自体が、公共の福祉のために必要であるとも言えるのである(昭二五、一〇、一一最高大法廷、集四巻二、〇一二頁)。従つて仮に憲法上黙秘権を認める規定が直接にないとしても、人間の最低限度の自衛本能による行動として、刑法上は期待可能性がないと言う価値評価を受けるのである。およそ国民の基本的人権の範囲を解釈するに当り、公共の福祉なる理由を附加して、これを制限的に解釈するがためには、真にその必要性と合理的理由がなくてはならない。公共の福祉の名において、たやすく国民の基本的人権を制限することは、公共の福祉の悪用と言わねばならない。論者の如く解釈するならば、刑事手続は刑訴法第一条に明定するが如く、公共の福祉のために遂行されるものであるから、刑事手続においては一切黙秘権を認めないと言う結論になりかねないのである。従つて公共の福祉を理由に、前記報告義務を認めるには無理があり、当裁判所の採らないところである。この点において両弁護人の所論とその結論を同じくするものである。

そこで当裁判所は交通事故報告の内容及び方法を分析して検討しその内の或るものについては黙秘権を認めながら、而もなお或るものにつき報告義務を是認することができないであろうか、即ち両者の調和的解釈ができないか否かについて考えてみたい。最高裁の判例(昭三三・二・二〇大法廷、集一一巻八〇二頁)によれば、氏名の黙秘は原則として黙秘権の範囲に入らないとしている。これはその判例が問題とした弁護人選任届の効力とか、人定質問の如きものについて言うのであろうが、犯行現場において氏名を開示することにより、実質上犯罪の自白になるような場合には、氏名についても黙秘権を認めなければならないこと、一部学者の主張するとおりである。即ち同じく氏名を告げることであつても、場合場合によつて、或は黙秘権を認め、或はこれを否定されるのである。交通事故の報告についても、右の如く相対的に解釈すべきであつて、刑事公判において起訴事実たる交通事故の陳述につき黙秘権があるからと言つて、如何なる内容の報告、如何なる方法による報告にも、常に黙秘権があると解すべきではない。逮捕乃至は検挙等、刑事手続の対象となることにつき直接の危険を伴わない事故報告ならば、これを強要しても、黙秘権を害したことにならないであろう。而も右報告義務を規定する施行令第六七条第二項は、報告の方法を限定せず、又報告内容の精粗深浅につき規定していない(同項後段所定の指示を受けることの合憲性の有無については、本件訴因外の事項であるから論及しない)のであるから、叙上の解釈は同条の適用上、何等支障がないのである。これを具体的に説明すれば、交通事故の報告を事犯者自ら警察官憲の面前に首服し、而もこれを詳細になすべきことを要求するにおいては、黙秘権を害することになろうが、例えば氏名を告げず又は偽名して電話をかけるとか、或は他人に依頼するとかの方法により、而も事故の輪廓だけを報告する場合の如く、逮捕乃至は検挙等刑事手続の対象となる直接の危険が伴わない手段を採り得る場合においては、その程度の報告を強要しても、黙秘権を害したことにならないと解すべきである。換言すれば右の如き場合には人間本来の最低限度の自衛本能を害したことにならず、所謂期待可能性を認めるべきものである。或は事故の報告義務をこのような狭い範囲で認めることは右施行令の規定を骨抜きにしてしまうと言うかも知れない。然し犯罪の捜査には役立たなくても、迅速な事故報告さえあれば、犯人不明のままでも、時を移さず、交通秩序の回覆に対処し得るのであつて、これにより、右の報告義務を認めた警察目的は達せられ、右規定の存在価値は十分にあるのである。なお我国の国民性から、事故を起した操縦者中には、自発的に右最低限度以上の報告をなす者も多々あるであろうから、右の如く狭く解釈したところで、交通秩序が収拾のつかないものにもならないのである。或は報告義務の立法者は事故報告の内容及び方法について、右の如き狭いものは予期しなかつたかも知れない。然しながら、立法当時の事情とか、立法者の意思はとにかく、一旦制定された後における法令の解釈は憲法に適合するようにしなければならないのであつて、法令の規定が概括的で、その内容が解釈如何によつて広狭何れにも解せられ、これを広く解するにおいては違憲となり、狭く解するにおいては適憲となる場合には、これを違憲にならないように狭く解釈すべきであつて、これを広く解釈して全面的に違憲なりと断じ去り、その規定内容の適憲的部分までも違憲視することは許されないのである。右報告義務を定める施行令の規定内容もかく解すべきであつて、憲法上の黙秘権を害するような報告は期待していないものと解すべきである。(警察学論集一二巻八号所載、藤木東大助教授の論文特に二三頁以下参照)

本件において、被告人は特段の事由なくして、右の如き黙秘権を害しない程度の事故報告ですらも、敢えてしなかつたのである。従つて被告人は右報告義務違反の刑事責任を免れ得ないのである。

以上の理由により、主文のとおり判決する次第である。

(裁判官 堀端弘士)

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